12月の新作公演に向けた、「贅沢貧乏の稽古場をひらく会」の全6回のレポートを以下の皆様に執筆いただくことになりました!(敬称略)
①身体から演技の方法を考える
中島梓織/いいへんじ主宰・劇作・演出
②新作のための脚本トーク
秋山竜平/脚本家
③新作のための美術・照明ミーティング
佃直哉/かまどキッチン・ドラマトゥルク / 企画制作
④新作公演読み合わせ
石塚晴日/ぺぺぺの会・俳優・制作
⑤新作公演立ち稽古
藤田恭輔/かるがも団地・自治会長
⑥“稽古場をひらく会”のフィードバック
中島梓織/いいへんじ主宰・劇作・演出
このレポートは、「贅沢貧乏の稽古場をひらく会」がどのような時間だったのか、
お越しいただけなかった皆様にも知っていただくことを目的としています。
また、贅沢貧乏として初めての試みを、他劇団/他分野で活動されている皆さんに見ていただきレポートを書いて頂くことにより、
稽古場を観客にひらくという催しがより広がれば面白いのでは!という思いから企画しました。
第二回のレポートは、脚本家の秋山竜平さんです!
開催概要:
(2)「公開会議:新作のための脚本トーク」
稽古場をひらく会:「新作のための脚本トーク」レポート(秋山竜平/脚本家)
困っています。
好きな劇団である贅沢貧乏が新作公演に向けて開催中の「稽古場をひらく会」。その第2弾のレポートを書いてくださいとご依頼いただきまして、私でよければと喜んでお引き受けしたものの、いざ観覧してみるとあまりに盛りだくさんな内容で、しかも山田さんからは事実をまとめるだけでなく出来るだけ秋山さんならではの視点を交えて書いてほしいというようなことを言われ、途方に暮れています。
どうしよう。でも書いてみます。しばしお付き合いください。
■はじめに、長い前置きを
「公開会議:新作のための脚本トーク」と題された今回。執筆中の新作戯曲について、作・演出の山田由梨さんとゲストの映画監督・長久允さんがトークをするというもので、山田さんは事前にX(旧twitter)にて、「長久さんに戯曲の感想を伺ったり、書いていて悩んでいるところやこだわっているところの相談、もはや本打ちをします!?」と言っていました。
「本打ち」というのは「脚本の打ち合わせ」のこと。映像業界では、監督やプロデューサーと何度も本打ちを繰り返して脚本をつくっていきます。作品をより良くするための会議なので、私にとっては基本的には脚本のダメな部分を指摘される場です。過去には泣きたくなるほどボコボコに打ちのめされたこともあり、私なら誰かに見られるなんてぜったい嫌です。でも、他人のそれは見てみたい。山田さんが泣くのを見たいわけじゃありません。好きな作家の創作の過程を、見たい、知りたい、学びたい。それが叶いました。
お二人のトークは、作品をより良くするための会議という意味では確かに本打ちでした。しかし、私が知っている本打ちとは大きく違います。ゴールがないのです。
普通は(と言うと語弊がありますが、おそらく大多数の脚本家は)、脚本を書き始める前に作品のテーマを決めて、取材をして、キャラクターをつくって、プロット(あらすじをもうちょっと詳しくしたようなもの)を書いて、場合によってはハコ(プロット以上、脚本未満の詳細な構成)をつくって、という工程を踏みます。
その順序に決まりはないし書きながら変わっていく場合もありますが、少なくとも脚本執筆に入る段階で結末は決まっているのが通常です。連続ドラマの場合は第一話を書き始めるときに最終回が決まっていないこともありますが、それでもぼんやりとした輪郭は想像しながら書くものです。
その過程において本打ちは、道案内というか、地図作りというか、そんなイメージです。「このゴールを目指すならこの道を通ってみたらどうか」とか、「そこに寄りたいならゴールをこっちに変えるのもアリでは?」などの意見が交わされます。
ところが、山田さんとの本打ちはそうはいきません。理由は山田さんの書き方にあります。プロットはおろかあらすじすら考えずに、1ページ目の一行目から書き始めて、先の展開は自分でも分からないというのです。目的地に向かってチェックポイントを通過していくのではなく、あてもなく散歩しながら気になった道へ進んでいく感覚でしょうか。
山田さんによると、ドラマの仕事のときは職業作家としてきっちり書くとのこと。映像脚本を生業にしている私は「職業作家としてきっちり」という言葉に一瞬モヤっとしましたが、もちろん山田さんの言葉に蔑んだ印象はなく、どちらかと言えば自分の中にある劣等感ですこれは。言い換えれば、憧れです。地図なんて持たずに知らない土地を歩き回るほうが楽しいに決まってる。本当はそうしたい人のほうが多いんじゃないか。今度知り合いの脚本家にも聞いてみます。
閑話休題、二人のトークは本打ちだったという話。「最適な本打ち相手を見つけた」と山田さんが言うように、長久さんだからこそ成立したのだと思います。長久さんの先の見えない道を歩く愉快さを心得ている感じ。そして山田さんが行く道をぜったいに否定しない態度。優しさや甘やかしといったものではなく、隙あらば面白い裏路地やけもの道を発見して、自分も楽しんでいるように見えました。
観客は二人のうしろを置いてかれないようついて行きつつ、たまにそれぞれが見つけた脇道を覗いていたんじゃないでしょうか。そんなイベントをこれからレポートしていくわけですが、その前に長久さんの執筆スタイルが面白かったので皆さんにお伝えします。
■長久さんの脚本のつくり方
長久さんは、まず言いたい(言わせたい)セリフを書き出して並べるんだそうです。この時点では誰が言うのかは決まっておらず、セリフの流れだけがある状態。その上で冒頭から書いていく。そうすると「あ、このセリフはこの人が言うのか」という感じで登場人物に定着していく。木を彫っていったら仏があったみたいな感覚で、彫らされていたみたいな気持ちになったりもする、という例えが、抽象的だけどとても分かり易かったです。
さらに、脚本段階でそのシーンに流れるトラック(音楽)を決めているとか、最初に終わりの曲の歌詞を書くとか、たぶん唯一無二の創作方法なんじゃないかと思います。
■観客は餅ではなく米つぶ
さて、やっと「公開本打ち」のレポートを始めます。お待たせしました。
戯曲をスクリーンに映して、劇団員の大竹このみさん、田島ゆみかさん、今作の出演者である武井琴さんがセリフを読んでくれます。ト書き(セリフ以外の、状況説明や登場人物の動作を書いた部分)は山田さんが読み上げます。
まずは作品の冒頭。ウツ状態にある主人公のマリが観客に向かって語りかけるところから始まります。既に発表されている通り、今作は山田さん自身のウツの経験をもとに書かれています。
長久監督の作品はすべてモノローグで始まるのだそう。「主題を立ち上げる」という言い方をしていました。これから始まるのは何についての物語なのか、観客に提示する手段です。一方、作品の始まりをモノローグにするのが初めてだという山田さんには別の意図もありました。
今年で旗揚げ12年目の贅沢貧乏(「まだM-1は出れる」by長久さん)、初期は一軒家など劇場ではない場所で公演してきました。その頃は観客が移動しながら観る作品だったため俳優の動きと同じくらいお客さんの動線も考えていたのに、大きな劇場では観客を同じ向きに座らせている。そのことを山田さんは「観客を餅(もち)化している」と表現していました。本当は一人ひとり違う見方をする「米つぶ」であるはずなのに、劇場という場所がお客さんを「餅」にしてしまっている。そんな思いから試行錯誤を続けた先に、今回の冒頭モノローグが生まれたんだそうです。
また、コロナ禍を経た今、「私とあなたがあえて今ここに居る」という価値を高めないと演劇は終わるという危機感も、お客さんに語りかけるモノローグを書いたきっかけとして大きいとのこと。
作品の外側(観客との関係、演劇の未来への危惧)からのアプローチで、作品の内側(セリフや演出など)を構築していく、その思考の深さがそのまま贅沢貧乏の幅の広さに繋がっているんだなと納得しました。
■音の長久さんと視覚の山田さん
つづいては、マリとパートナーのヨウの場面です。ヨウの仕事の都合で海外のホテルに滞在中の二人。ヨウは日本を離れた解放感から、ちょっとウザいテンション。そんなヨウを見て、マリの気持ちはどんどん閉じていくというシーンです。
ここで長久さんが注目したのはシーンの最後、「マリにズームイン」から始まる11行に及ぶト書きです。
長久さん曰く「混沌全部入り」の長いト書き。長久さんはヤン・シュヴァンクマイエルの映画で聞こえるようなアナログの嫌な音が似合いそうだと言います。ヤン・シュヴァンクマイエル作品はどちらかと言えば視覚的面白さの映画だと思ってましたが、「あの音」と言われればすぐに思い出せるくらい確かに聴覚的にも印象深いです。そういう例えがパッと出てくるあたり、長久さんはやはり音の人。
対して山田さんは視覚強めを自負していて、ウェス・アンダーソン的な眼福映像が好きなんだそう。ト書きの「マリにズームイン」は、人物に向かって丸く画面が閉じてゆく映像のイメージ。アニメ『キテレツ大百科』のオチの場面でよく使われていた手法だと思います(正式名称は「アイリスアウト」)。舞台でどう表現するのかは分からないまま書いたというト書き。本番でどうなっているのか、期待しましょう。
■示唆はあとからついてくる
次に取り上げられたのは、マリとホテルで働くひとたちの会話の場面。掃除係の幽霊が、幽霊らしくないと言われて怒り出します。
社会に蔓延る「属性」らしさの呪縛が描かれたいいシーンだと激褒めの長久さん。しかし山田さんは全然そんなつもりで書いてませんでした。ただ、インタビューで聞かれたらそう答えるだろうとも言います。嘘をつくということではありません。執筆時には意識していなかったのに、後になって改めて眺めると意味が見えてくることがあるそうです。
「示唆はあとからついてくる」という山田さんに対して、「示唆の方が先にある」という長久さん。正反対なことを言っているようで、同意し合う二人。
このあたりの話は私も実感をもって頷けるものでした。すべてのセリフやト書きに深い意図を忍ばせているわけではありませんが、自分から出てくる表現には常に思考や思想が乗っているわけで、それを後から発見するということはあります。そういう意味で、示唆はあとからついてくるとも言えるし先にあるととも言えるわけです。
演出家でもあるお二人は私のような専業脚本家とは歩いている道も見ている景色も根本的に違うんだろうな(もちろん脚本家が全員私と同じとは思いませんが)…などと、それまでのトークを聞いて距離を感じていましたが、ようやく共通点を見出せた瞬間でした。しかしながら、この直後にお二人から出てきたフレーズ「猫を探す女が出てくることは決まってた」(by山田さん。新作に登場する登場人物)や「シャワーから喋るミミズが出てくることだけは決まってる」(by長久さん。突然言い出した)は、自分には到達できない境地に思え、圧倒されました。悔しい。
■どうやって終わるのかはまだ分からない
最後に観客の皆さんからの質問コーナーがありました。
その中からひとつだけご紹介します。
Q:トークの中で、治ることがゴールではないというのはウツを書く上で決めていると言っていましたが、物語の終わりはどう考えていますか?
A:どうやって終わるのかは分からないけれど、「これは違うよね」はある。これはしちゃいけないっていう選択肢がどんどん出てきて、道が見つかっていくという感じです。
作者本人も、まだどう終わるのか分からないという物語。このレポートに書いた以外にも、現在発表されている概要からは想像もつかない場面の脚本が惜しげもなく披露され、お二人のディープなトークが繰り広げられました。山田さんは「ネタバレは気にしない」と仰ってましたが、その全部をお伝えするには文字数が足りないのでこのあたりでご容赦ください。
きっと会場に居た人たちは、帰りの電車の中で、帰宅して眠りにつく前に、翌朝目覚めたとき、あるいは数日後のふとした瞬間に、この物語がどう終わるのか考えてしまったことでしょう。「家に着くまでが遠足です」という言葉がありますが、12月の公演までの長い長い本打ちの中に、私たちは足を踏み入れてしまいました。かくいう私も、今もなおその道を楽しく歩いています。
撮影:高田亜美
執筆者:秋山竜平
脚本家としてテレビドラマを中心に活動。執筆作に『流れ星』(フジテレビ)、『もう一度君に、プロポーズ』(TBS)、『捜査会議はリビングで!』シリーズ(NHK-BS)、『東京男子図鑑』(カンテレ)など。現在、初のマンガ作品『メテオ7』のシナリオ(8話~)を担当している。初めて観た贅沢貧乏は『みんなよるがこわい』(2015)。
贅沢貧乏の稽古場をひらく会 詳細はこちら↓
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